昭和50年01月10日 月次祭
今年初のお月次祭を奉仕させて頂きました。何でもこう、初と申しますと何か心も新しゅう、何か初々しい、何か心が引き締まる思いがするのです。初めて今年初のお祭りだから、今日は初の何々だからとこう言うと、まぁその初の所から失敗してはならないと言う様な物が、心の中に動くからではないでしょうか。信心には此の、初の心というのが一番大事です。三代金光様は此処の所を、信心は日々が更で御座いますと。日に日に更という。新しいというその心。それが大事であります。
お月次祭を奉仕させて貰います前に、先生方があそこで整列を致します。前に座っておられる、西岡先生のこの教帽がこう斜めになっておられる。なんでも斜めにこうするというのは、中々粋なもんですけれども、教帽がこうちゃんと斜めにですねこう、ハンチング被ったみたいに斜めになってるのは、あまりみっとも良い物じゃない。直ぐ鏡を見てからこう直された。それで今私はお祭りを仕え終わってから、改めて教衣をこうやってして貰いますから、鏡をこうして見せて頂いたら。
私のは斜めにゃなっとらんけれども、こうよごどった。もう本当に人の事は解るけれども、自分の事は分からないと言うので御座います。ね。本当に自分の事は解りません。もうよっぽど自分で自分の心を、本気で見極めると言うか。先程幹三郎がお話を致しておりました様に、ね。教えと言う光りに照らされて見ると、自分の心の中にです。もうそれこそ、自分でも驚くばかりの汚い心が動いておる。成程屑の子吾の自覚が生まれて来る。もうそれこそ、涙ぐましいお話で御座いましたですね。
教えの鏡を前に立てる。教えの光りに光りだされて、自分自身が分かる。ね。愈々その、教えと言う物に取り組まなければならないかと言う事で御座います。今年は元旦のお祭りの後に、皆さんにも聞いて頂きました様に、どう云う信心をさせて頂いたら、おかげになるだろうかと、探りを入れるような信心から、ね。今年は私共が本気で受け様と言う気になれば、おかげが頂かれる年だと言う意味の事を聞いて頂いたですね。だから本気で受け用途言う事の為には、本気で受けよと思いますと言う証が。
その信心にありありと出て来なければならぬ。今年はどうでんおかげ頂かんならんと言うて、唯腕こまねいておったり、ね。暖かい布団の中に、ちゃんと休んでおってはおかげは受けられません。ね。久留米の初代の石橋先生の例を持ってお話しました。元旦早々に神様が、ね。もう十何年と言う間、当時のお金で八千円というお金の借金があった。その利払いだけに、毎年来る年も来る年も、利払いばかりであった。
おとそを頂かれながら、今年も又利払いの為に一生懸命働かんならんとまぁ、俗な人間が考える様な事をふっと考えられた。そしたらお杯を持って、こうしておられる先生の頭上に、言うならば幽冥からお声があった。石橋松次郎、八百俵の徳を授けると言うお声であった。もう紛れもなしに四神金光様、二代金光様のお声であったと言う事で御座います。ね。そこから奮い立たれた。神様が下さるなら本気で頂こうと。当時のお米が一俵が十円であったそうですから、ね。
八百俵の徳を受けられたら、ね。八百俵の言うなら八千円の、借金は払えるだけではない。お徳と言うのはあの世にも持って行け、この世にも残して置けると言うのですから素晴らしい。ね。十何年掛かってお払いが出来なかったのが、一年足らずで元利共にお祓いになる事が出来た。そしてそれが今に残っておる、久留米教会のお徳である。合楽教会なんかも、そのお徳に潤うておる様な物で御座います。ね。
だからはあー今年は神様が下さるなら、いっちょどうでん頂かんならんと言う、お頂戴だけしとっただけではいけんのです。神様が下さるなら、本気で頂こうという姿勢を造らなければならない年だと。それにはです、只今申します様に愈々自分自身が、ね。何処をどう言う風に改まって頂こうか。どういう姿勢を持って頂こうかというその姿勢を作らなければならない年だと言う訳です。愈々この六日の寒の入りから、寒修行が全国全教一斉に、寒修行が行われております。
此処でももう朝の四時の私の御祈念にはもう、此処半ば見えておられます。もう五時の御祈念ともなるともう、此れが立錐の余地も無い様に一杯であります。もうそれこそ昨日一昨日の御理解でした。雪の進軍と言う事を頂きましたが、それこそ雪の中に前進しておる、突き進んでおる、そう言ういうならば、姿勢を持って皆さんが、修行に取り組んでおられます。ね。矢張り本気で一つ修行に取り組まなければいけません。ね。それもおかげではなくて愈々力を受ける。
私は思うんですけれどもね。神様が色々と本当の事を教えて下さっても、その本当の事が、受けて答えられる、ね。言うならば受けて立つと云う姿勢を見せなければ、神様はもう、精がありなさるまいと思います。幾らこうだぞああだぞと、決して難しい事は仰らん。ね。お互いがその気になりゃ誰でも出来るのが信心である。そういう例えば事をですね、中々踏ん切りが付かない。言うなら唯聞いておるだけと言った様な事ではね。それこそ伝える者も精がない。
神様とてもお喜びになるはずはありません。それに答えて立たせて貰うと言う事が大事なんです。先日青年会の主催で、新春パーティが此処でありました。賑やかな催しでした。信徒会の後援で御座いますから、もう皆さんから、沢山な福引なさる、あの景品が献納になっておりました。沢山出来ておりましたが、それがま内々の者は頂けない位に沢山、皆さんご参拝があっておりました。
しかもその福引が一人一人頂くもうその適切な事。御理解付で御座いましたから。ね。ですから例えばそういう神様のお心というか、神の声というか。それを聞いて立たなければ、どんなに素晴らしい、はぁ素晴らしいと、ね。神様が見通しだ見抜きだと言う様に思うてもおかげになりません。今日は丁度午後の奉仕の時に日田から四五人連れで、お参りになりました、銘々その晩に参っておられましたから。
そん時にその御理解の言うなら心と言う物も、一緒に聞かれておりましたけれどもようく解らないからと言うて、そのそれを皆さん持って見えられました。こら丁度短冊形の中に、色々書いてある。その中に日田の竹野さんがお参りでした。それは今年こそ合楽示現活動に参画させて下さいと言う、御教えが出ておりました。ね。私は此れを頂いた時に、もう今年はもう私の信心は、此れで行こうと思いましたと言うのです。ね。
愈々合楽示現自分の周囲周辺の方だけ位にはです。今まで合楽示現活動をして参りましたけれども、ね。本格的な物ではなかった。例えて言うなら池田さんやら、川上さん辺りの様に、もうそれに掛かっておられる。吉井の熊谷さんが昨日のあ今朝かお届けをされておりましたが、丁度暮れから、大阪の、あの息子さん達一家が、吉井のほうへ帰って来とりました。で昨日あちらへ帰られました。
まぁ子供三人連れて来とりましたから、大変日頃は自分一人でおありになるのにもう、家族が一遍に増えた様で、まぁ賑やかな事で御座いましたから、ね。その合楽示現活動にも、歩く事も出来なかった。だからもうこの際と思うて、息子に聞かせる嫁御に聞かせるして、まぁ内々での示現活動は致しましたけれども、ね。もう言わば孫達も帰らせて頂いて、無事に着いたという電話も掛かって参りました。此れから又、ね。腰を落ち着けた、言わば、外部への示現活動に入らせて頂く。
もうとにかくそれがもう、待ち遠しいと言う様な感じでお届けをなさいました。ね。今何と言うても、合楽の示現活動というのは、合楽の一番先端を行くものであると同時に、私共の信心だけで、神様のお喜びの信心であります。自分が助かっておる、その助かっておるのを、又人にも伝える。言うならば神様の一番願いとしておられる所の願いに、答えて立とうと言うので御座いますからね。
竹野さんも矢張りそうである。今年こそは合楽示現活動に参画させて下さいと言う、そのくじを引き当てられてから、今年は愈々是でと腹を決められた。そして今日、お参りをして見えてからのお届けで御座います。今日はおかげの泉を二十冊買わせて頂きます。此れから、月々そのおかげの泉を買わせて頂いて、それを合楽示現活動に使わせて頂くと言う訳で御座います。ね。
毎日お参りして来よったっちゃまぁだあれを買おうとも、見ろうとも読もうともしてない人がある中にです。ね。そういう例えばその熱願に燃えて、今日のお届けがありました。私は、大変嬉しいと思うた。有難いと思うた。ちょうど、四時になりましたから四時の御祈念を仕えさせて貰う時に、その竹野さんの事を神様にお礼を申させて頂いておった。今日は日田の竹野さんが、こう言う様な有難い事を申します。
どうぞ神様の願いが又、竹野さんの願いが成就致します様にというて、お願いをさせて頂いておりましたら、竹冠に耳という字を頂いた。此れは茸と言う字ですよね。椎茸の茸。竹冠に耳と言う字です。本当に私は神様は見通しだ、聞きとおしだと思いますよ。それから四時の御祈念を終わらせて頂くのは、四時半ですから此処に四時半に下がったのと同時に、けたたましく電話が掛かって参りました。
竹野さんからです。ね。「親先生、今日は大変不思議な事ばっかりで御座いますので、あの改めてお電話をさせて貰いました」と言うのです。朝から何軒からも椎茸を頂いたと言うのです。 そして合楽から帰らせて頂きましたら、又あの生の椎茸が、木にこう植わっておるまま頂いたち言うんです。こら今日の椎茸には何か御神意、御深慮があろうごとして応えんから、お電話をさせて頂きました「はぁ有難いね今実は私はね、あんたの事を、四時の御祈念に、お礼申させて貰いよったら。
この椎茸の茸の字を頂いたが」と私は申しました。茸の字と言う事は、竹野の竹でしょう。下に耳という字は、ね。神様の言うならば言われた事を、言うならば聴くと言う事でしょうか。ね。もうそれこそ打てば響く様にです。ね。合楽示現活動に参画させて頂きたい。帰りにはおかげの泉を二十冊購入して帰りたい。此れを示現活動のそれに充てたい。朝から何軒からの今日は椎茸を、それまでは気が付かなかった。
帰らせて頂いたら途端に椎茸の生の椎茸の木にいっぱい、植わっておるのを頂いた。こら神様が何か私にささやきかけておられるのだ、お知らせ下さりよるんだと思うたから電話をした。私はその間に丁度四時の御祈念ですから、御祈念させて頂いておって、その竹野さんの事が有難いと思うて、お礼を申させて貰いよったら、竹冠に耳の字を頂いた。こう言う風にですね。神様の教えて下さる事を応と応えて立ち上がる。
如何にその神様との交流と言う物がこう言う中から、おかげの交流ばかりを願ったって駄目です。それは今おかげの交流というならです。今の合楽のにちにちのきせきの現われから言うても、おかげだけは交流しますおかげは現れます。けれども信心が交流するお徳が交流する。言うならば天地金乃神様の御神徳が、そのまま自分の心の上にも、家庭の上にも頂けれるというのが、神の願いであり又は、私共の根本の神への願いの根本でなからなければならない。
氏子信心しておかげを受けてくれと仰せられるのは、どうぞ御神徳を受けてくれと言う事。御神徳を受けずば、人間の本当の幸せはない。おかげだけでは駄目だ。あの世には持っていけん。この世には残してはおけない。それを受けると言う事に、私共が着眼させて貰う。焦点をそこに置いての、信心でなからなければならない。例えば今日一日の事を申しましても、ね。此処の田中さんの、妹さんの子供さんの子供さんです。どう言う事になりますか。田中さんは大叔母さんと言う事になられますでしょうか。
四五日前に大きなちょっと、普通とは思われない位な大きなお腹をした、その姪御さんを連れて参られました。異常妊娠でした愈々あのもう、此処一両日の内にまぁ出産だろうけれども、お医者さんはそれがあの逆産である。逆子になっているそれでまぁ切開手術かなんかをしなければ、普通では出来まいと言う事であった。成程愈々掛かられた。御神米が二体下がった。だから私は申しました。
大丈夫ですよ安産のおかげ頂きますよ。御神米が二体下がる時には、もう親子共々にと言う事じゃからおかげ頂くよと、その親子五人か六人かその時参って見えた時に、田中さんにもそれを申しました。そして愈々その翌日産気づかれて病院に行かれた。所がやっぱ中々難しい。とにかく頭から出らにゃんとが足の方から先出て来た。それこそ一生懸命に金光大神様そして愈々そんなら、まぁ切るなり処置をしなければならんと言って、バタバタしておる時にです。
もうそれこそまその時のお礼に出て見えた言葉ですけれども。がたがたしてる時にそれこそひょっと生まれたち。どげんして出たじゃら分からんごとして、まぁ安産のおかげを頂いたと言うて、お礼に出て見えられました。ね。所がですその頭に何かうっ血しておって此れはまぁ、折角取り留めたけれどもこの子供はもう、あきらめて貰わんならんと言う様にもう、子供がそういう状態であった。又それからお婆ちゃんそれから田中さんも一緒にお願いに出て見えられました。それが昨日の事だったでしょうか。
今朝からお婆ちゃんがお礼に出て来ました。こら田中あ田中さんじゃない。何だったかこりゃ助かるかも知れんですばいち。その頭の塊がですね、どういう風にして解けて行ったのかその溶け出した。そしてお乳を頂かなかったのが頂きだしたと言うのです。此れも今日夕方お礼に出て来ました。内田さんの孫です。ね。此れも盲赤ちゃんというのは、段々生まれたら段々一週間たち十日経つ内に、大きくなるとかと思うとったら段々こもうなって行くという病気じゃった。不思議な病気じゃある。
そんな訳ですからやっぱり病弱なんです。それからまぁ一心の信心をして、おかげを頂いた所が三四日前から、もう四五日前からですか。まっ此れも愈々助かるまいと言う事になった。夜中に又電話が掛かって来た。電話を掛けさせて頂いたその時点からです。熱が下がった。その時点からおかげを頂く様になった。そしておかげを頂いて今日は退院をして親子三人連れでお礼に出て来ました。
此れも午後の奉仕の時、佐世保から電話が掛かって参りました。四五日前此れは此処の近所の教会のご信者さんで今佐世保に言っておられる。ご主人が何々癌という癌で、もう医者は難しいという。しかもその末期症状のその苦しまれる状態と言う物が、見ちゃおられん。そこでお医者さんがですね、言わばあの殺す注射をしても良いと言われた。ね。家族の者の言うならば、承認を得ればそのでなかったら、あまりにも見ちゃおられん程しの苦しみであった。
そこでそんならそうして下さいというて、お願いをしたけれどもです、手術される寸前にはっと此処の事は、まだ参った事も無いけれども、合楽教会のゴヒレイを聞いておったからとにかく先生、ちょっと待って下さいと言うて電話を掛けて来た。もうそれこそ内田先生が聞きましたが、公子先生が受けたそうですがもうそれこそ泣き泣きであった。こんな訳で御座います。どうぞ親先生にお取次ぎをお願いしますと言う事であった。翌日電話が掛かって来た。
此れも末永先生が受けましたが、もうそれこそ今度は泣き泣きが、有り難涙の有難さであった。もうお届けをさせて頂いた、その時点から苦しみが取れたんです。唯足が少ししびれた様になっておるだけで、苦しみが取れたと言うのです。ね。その方から今日御結界に座っとったら、こちらに電話が掛かって参りました。もう親先生お目に掛かった事も御座いません。それにまぁ本当にもう唯医者がたまがっておりますと。
おかげを頂いてしかもご飯を頂く様になりましたち言うんですよ。どうぞ一日も早うお礼参拝が出来ます様にというお届けでした。ね。何十年間のもう奥さんの鼾をかきござった。そればお願いに来たら二日間三十九度の熱が続いた。ね。お願いをしてその方は他所の信者さんですけども、教えを頂いておられますから、ね。信心して変わった事が起きて来たら、有難いと心得て信心せよと。
合楽の先生にお願いして来ておる事だから、此れは医者にかけたりする病気じゃなか、とにかく神様のご都合に違いはないと、二日間辛抱しておったら、二日間目に取れてしもうた熱が。同時にさしもの長い、言うならば鼾がですね。そらすさまじい鼾じゃったげな。何十年間よう辛抱したこつのち言うて話した事でした。ね。親父が鼾かくならよかばってん、嫁御がかいてぐーぐ言うならちょいとですのや。そればってんからそげなこつまで、金光様じゃおかげ頂けんと思うてあった。
それからお願いに見えたら、そう言う事でおかげを頂いて、お礼参拝に昨日出て見えました。と言う様にですおかげならばです、おかげならば頂けると言う訳です。ね。私が今日皆さんに聞いて頂いたのはね、おかげではない。信心が言うならばお徳の交流がです、神様となされて行く様な、今年はおかげの頂けれる年だから、今までなそうとして為し得なかった、今まで改まろうとして、改まり得なかった。
此れからはこげないっちょ、本気な信心してと、その信心の姿勢の見せ所、私はそれを今度の寒修行に掛けております。皆さんが一生懸命でお参りをして見える。言うなら今年の、言うならば第一歩である所のお徳の受けられる信心の、おかげの受けられる所の信心の、第一歩の姿勢が此れだと思うて、その人人の顔を眺めさせて貰うて、私は喜んでおります。先ずこの姿勢が出来ずして、ね。
昨日竹内先生夫妻がお参りして見えて、昨日の御理解を頂いて雪の進軍という、本当にこういう姿勢を持たなければならないと言うて、一遍もう帰りかけておられたけども、又改めてお届けに見えました。そのお初穂に肩書きに、雪の進軍と書いてあった。今年はこの勢いで信心をさせて下さいと言うので御座います。先ず神様へ打ち向かう、その姿勢が言うならば雪の進軍、私が御神願に頂きますとです。もうそれこそ雪が降っておるなかを進んで行くのですから、唯こげなふうじゃ行かれません。
もうそれこそ前傾きになって、こうやった勢いでですね。こう進軍しておる状態を頂きましたが、神様へ向かうという姿勢は、そういう姿勢でなからなければ、生き生きとした、さらな物が生まれるので御座います。その生き生きとした心が無からなければ、如何に教えを頂いても、ね。唯聞いておるだけの教えでは役に立ちません。おかげは受けられます。けどもそれでは信心が解りません。
信心が解らなければお徳は頂かれません。ね。お徳を受けさせて頂くという、言わば今年は愈々そういう姿勢をです、雪の進軍に一つ習わせて頂いて、おかげを頂きたいと思います。ね。打てば響く様に、ね。神様が、こういう信心をと言うて下さったら、ね。竹野さんじゃないですけれども、愈々今年は本気でその信心で行こうと、例えばおかげの泉を二十冊、ね。買わせて頂いて、今まで出来ていなかった所の示現活動に参画させて頂こうと言う、一心発起のお届けをして帰られたら。
神様がもうその私の四時の御祈念中に、その事のお知らせを下さった。如何に朝から椎茸が集まって来ておる事が、神ながらであったか解った。此処から帰らせて頂いたら途端にまた、生椎茸を頂いた。此れは只事ではないと、お電話をさせて頂いたら、実は竹野さん、私も唯今あんたのその事をお礼申させて貰いよったら、竹冠に耳という字を頂いたが、ね。竹野が言うならば、私の言う事を、打てば響く様に聞いて受けてくれるという、その心に神様が感動なさったと言う感じで御座います。
そこから初めてです、ね。神仏が先に立ってと教えられます様にです。不思議な不思議な働きが生まれて来る。示現活動させて頂く事が、それこそ熊谷さんじゃないけれども、ね。我が子が来ておる時には、中々外に出る事も出来なかったけれども、帰ったらもうその日から、心はもう示現活動の事が嬉しゅうなって、明日からまた改めて、示現活動に参画させて頂くという、そういう生き生きとしたです、ね。お届けの出来る様な、私は信心を今年こそは見に付けて頂きたいと思います。ね。
初の言わばお月次祭に、例えば皆さんに今日聞いて頂いた事の中から、それこそね。打てば響く様に自分の心の中に、何か響いた物があるとするならば、それに応と答えて立たせて貰う所に神様の感動がある。神様の感動はそのまま、私共の上に感動となって帰って来る。その感動が私をいやが上にも清めてくれる。改められなかった、その改められなかった事がです。
その感動という勢いを持って、改めて行く事が出来る。ね。じっとして寝てはおられん。まぁだ二十四日間残っております、寒修行で御座いますから、ね。色んな事情でお参りが出来ない方も御座いましょう。けれどもせめてです、ね。二日でも三日でも乗り物がないなら、まぁ二日三日はタクシー雇うてからでも、あの言わば異常なまでの、御祈念会ですか、ね。御祈念の、御祈念修行に参加させて頂いて、そして愈々ね。私共の神様へ向かう姿勢を、それぞれの信心の時点においてです。ね。
しっかり定め作らせて頂きたいと願うもので御座います。どうぞ神様がね、それこそ打てば響く様にあると言う事を、例えば竹野さんの例からでも思うじゃないですか。ね。神様が言うて下さった事を、言わばこの耳で聞き止めて、それを行動の上に現していくと言う事が信心である。幹三郎が今日申しておりました様に、ね。教えと言う光りに照らされて、自分自身が分かると言うておりました。
自分自身が分からないと、何時も此れで良い様に思います。ね。二三日前今の自分を愈々解ると言う事に付いてお話をさせて頂いた、その日の御祈念に、田中さん中村さんが参っておられました。その御理解を頂いて、先生もう自分ばっかり、自分の汚い自分のつまらん所ばっかり見よったらもう、卑屈になってどんこんいかんとじゃないでしょうかち言われました。けれども金光様のご信心は。
そういう卑屈になると言う事とは違うんです。もう自分の様な者があろうか。自分の様な屑の子があろうかと言う事はです。そういう屑の子であるのにも関わらず。神様がかくおかげを下さってあると言う事実を、目の当たりにするから、自分のようなものに、このような神様のおかげを感じるから、感動がいよいよ、深く広くなって来るのです。ね。屑の子の自覚に立てば立つ程。
言うならば有難くなると言う訳で御座います。自分の様な屑の子。自分の様な汚い自分にも係らず、神様はかく迄のおかげを下さっておるという。そのかく迄のおかげだけの所に終始しておったんでは、神様の言うならお喜び頂ける様な信心と言う事にはならんので御座いますから、ね。愈々教えの鏡を前に立てて、教えの光りに光り出される自分を見極めて、其処からの信心でありたいと思います。
どうぞ。